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活動内容


台湾元総統李登輝先生「奥の細道」探訪記念句碑建立について

宮城県日台親善協会会長  相沢光哉

日本李登輝友の会宮城県支部  支部長  嶋津紀夫


はじめに

 台湾元総統李登輝先生は、平成27年7月24日から26日までの3日間、8年前の平成19年6月に続き、2回目の宮城県訪問をされました。 李先生はすでに92歳になられましたが、大変お元気に仙台市、松島町、岩沼市を巡られました。  今回の訪日は、東京都でのわが国の衆参両院の国会議員への約1時間半にわたる特別講演と東日本大震災復旧復興状況の視察を兼ねた被災地の人々への激励、そして松島町に建立した李登輝先生ご夫妻の俳句の句碑を直接ご覧いただくこと等が目的と伺いました。  相沢みつや県議は、宮城県日台親善協会会長をつとめておりますので、嶋津紀夫日本李登輝友の会宮城県支部長はじめ在県のメンバーと、8年前同様、心を込めて一連の歓迎行事を遂行いたしました。  その模様は改めてお知らせいたしますが、ここでは「奥の細道 探訪記念句碑建立について」の経緯をご理解いただきたく、まとめてみました。



李登輝先生の句碑を建立したい
宮城県日台親善協会会長 相沢 光哉 

 平成19年6月2日、奥の細道探訪に宮城県を訪れた李登輝先生の一行が仙台駅を一歩踏み出した瞬間、大勢の歓迎の人々が、手に手に台湾や日本の小旗をふり、横断幕を掲げ、大歓声で「李登輝先生、万歳!」と喜び叫んだ。その光景は、今なお熱く脳裡を離れない。私達にとって、待ちに待った歴史の瞬間が刻一刻と刻まれていく思いだった。
 李先生ご夫妻の乗用車をはさみ、案内車、警護車など5台の車列は、新緑のけやき並木の青葉通りを通り、多賀城市にある壺の碑(多賀城碑)に向かう。芭蕉が間違いなく目にした実物を、解説を受けながら手が触れ文字を読む李先生の姿は、時空を超え芭蕉と対話しているようでもあった。
 塩竈神社でも大勢の人々が歓迎の列をつくって出迎えた。神社側のはからいで、社殿前にメグスリノキを記念植樹。曽文惠夫人が「今昔芭蕉慕ふる南風」と一句。
 芭蕉が扶桑随一の好風と愛でた松島は、李先生にとって特別の場所だったと思われる。国宝瑞巌寺、名園円通院、五大堂と巡り、ホテル大観荘から松島湾を一望し、感嘆の声をあげられる。自然と調和する日本の美を実感されたのだろう。李先生は30名前後の記者団に囲まれて、「松島や光と影の眩しかり」の俳句を披露する。「松島やロマンささやく夏の海」は夫人の作、共に秀逸。
 翌日、山形県の山寺を訪れたあと、仙台市内の勝山館で宮城県日台親善協会、日本李登輝友の会宮城県支部共催の「李登輝先生を囲み歓迎するつどい」に一行全員が出席いただいた。常盤木学園高校生徒80名が合唱した「ふるさと」は感動を呼び、黄昭堂氏は「一番のごちそう」と目を潤ませた。
 県内で歓迎の準備に関わった多くの仲間は、いままた李登輝先生の句碑を松島の瑞巌寺境内に建立すべく、行動を再開している。松島芭蕉は、残念ながら松島で句をつくらなかった。李先生の句碑は、日台親善の象徴とともに新たな観光スポットとなりうる。来年の6月2日、来県1周年を落成の目標に頑張りたい。

日本李登輝友の会 編
李登輝訪日「日本国へのメッセージ」所載




李登輝先生「奥の細道」探訪記念句碑を国宝瑞巌寺に建立する理由

宮城県日台親善協会会長  相沢  光哉


はじめに

 平成19年(2007年)6月、台湾の元総統李登輝氏が「奥の細道」を探訪するため、東北地方を訪れ、各地で大歓迎を受けたことを記憶している人は多いと思います。宮城県では、多賀城の壷の碑、奥州一の宮といわれる塩竈神社、日本三景松島など、松尾芭蕉が紀行文「奥の細道」の中で見事に描写した各所を李氏も訪れ、特に松島では夕暮れの松島湾を展望しながら、「松島や 光と影の 眩しかり」という俳句を詠じました。
 私は宮城県日台親善協会の会長を務め、また日本李登輝友の会の理事であることから、李氏の3日間の本県滞在中のご案内や歓迎会の開催などに関わってきました。そして、来県1周年に当たる平成20年(2008年)6月8日、松島の国宝瑞巌寺境内地に、李氏直筆の揮毫による句碑を建立することができ、その除幕式を盛大に開催いたしました。
 この句碑を建立に当たっては、県内各方面の方々から多額のご協賛を賜り、深く感謝しております。
 なぜ句碑を建立したのか、芭蕉と李登輝氏とはどういう関係なのか、そもそも李登輝氏とはどういう人物なのか、について以下記してみたいと思います。

李登輝氏の存在感と日台間の相互互恵関係

  李登輝氏は、蒋介石、蒋経国総統に続いて台湾(中華民国)の総統に就任した人で、初めての台湾出身者でした。その任期中、一滴の血を流すことなく台湾の民主化、自由化をめざましく進展させ、現役を退いた今も「台湾の父」として政党を問わず慕われています。 
  一方、李登輝氏はわが国においても大変な信望を賞賛が寄せられる政治家であり、その人気は本国を凌駕するほどです。戦前生まれの李氏(平成19年当時 85歳)は、本人自ら「22歳まで日本人」と語るように、日本の統治下にあって徹底した日本の基本教育を受けました。「もしそれがなかったら、現在の私には己の生命と魂を救う基本的な考え方は得られなかったと思う。また、台湾は日本の植民地でありながら、日本内地と変わらない教育を与えられたが故に、非常に近代化した文明社会がつくり上げられた」とも述べております。
  このように、李登輝氏はアジアを代表する大政治家であるだけでなく、日本人以上に日本を愛する理解者であり、わが国の歴史・伝統・文化に深い造詣を寄せる文化人であり、大局的見地からズバリ本質を突く警世家でもあります。外国の政治家で他に例を見ない「友の会」という組織が、東京に本部を置き、地方に支部が多数つくられていることも、その人気の高さを証明しています。一言でいえば、李登輝氏は、日台両国の現代史に燦然たる存在感を示す希有な逸材でありましょう。
  ところで、日本と台湾は、今日正式な国交がない状態が続いています。しかし、日台間の実質的な相互互恵関係は、シーレーン(中東からの石油輸送海路など)の確保やアジア外交のパワーポリティックスの面で、極めて重要で、かつ国益に合致するものです。また経済・文化・観光など活発な民間交流は、地方経済にも多くの恩恵をもたらしています。
  例えば、宮城県を訪れる外国人は近年台湾が連続トップを占めています。平成20年7月より、台北・仙台間の航空直行便が週5便に増えたこともあり、将来、台湾観光客の来県者数は年間5万人を超えるかもしれません。そうなれば、本県の代表的な観光地である松島や蔵王への経済波及効果は一段と拡大するものと思います。

松尾芭蕉と李登輝の詩魂と霊性が邂逅する松島

  「月日は百代の過客にして」で始まる「奥の細道」の名高い冒頭部で、芭蕉は「松島の月先ず心にかかりて」と、みちのく路を辿る重要な動機の1つが松島であることを吐露しています。そして、「奥の細道」の紀行文で一、二を競う名調子で、松島の絶景を「扶桑第一の好風」と賞賛しましたが、残念ながら松島を題材にした俳句は作りませんでした。
  この「奥の細道」の探訪を長年の悲願とし、ようやく実現にこぎつけたのが李登輝氏でした。芭蕉は、たとえわが身が路上の露と消えようとも厭わない覚悟で、みちのくの歌枕の名所を尋ねようとし、それを成し遂げ、「奥の細道」という名著を書き残しました。李氏の芭蕉に対する深い思い入れは、「奥の細道」の全文をほとんど諳んじていることにも見られますが、それは単なる追慕に止まりません。他日、李氏は「奥の細道」探訪が実現したことの感想を求められた際、「奥の細道に代表される自然と調和してきた日本独自の文化、そしてそこから生まれる高い精神性で、日本は世界に貢献してほしい」という含蓄のあるコメントを発しています。李氏の心情は、高い精神性で芭蕉に迫っていることを感じます。それはあたかも、芭蕉がいにしえの放浪歌人西行の詩魂に心を寄せていたことにも通じるのです。
 つまり、俳諧のエッセンスを「不易流行」に求め、わずか17文字の短詩という文芸形式の中に真の精神の高みを完成させた芭蕉と、武士道精神を高く評価し、自然に対する日本的な感受性を尊ぶ李登輝氏とが、時空を超え、歴史を貫いて、それぞれの詩魂と霊性の邂逅を果たした場所が、松島であり、瑞巌寺であったのではないでしょうか。
 ちなみに、芭蕉は松島を訪れる前に、多賀城の壷の碑を見て「疑いなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す」と感涙の言葉を残し、塩竈神社では和泉三郎(平泉藤原秀衡の三男、忠衡)が寄進した文治の宝燈に接し、父秀衡の遺言を守り、源義経に味方して兄泰衡に謀殺された忠衡を「勇義忠孝の士」と褒め称えています。もちろん、李登輝氏は今回の旅程で芭蕉が見た同じ実物を、しっかり目にとどめています。
 日本文学の権威ドナルド・キーンによれば、「奥の細道」で芭蕉は、例えば「夏草や 兵どもが 夢の跡」の名句に見られる「国破れて山河あり」の感慨にあっても、山河=自然の永続性を疑い、否定しているといわれています。そして、壷の碑や文治の宝燈のように、古人が自らの手で形として残してきたものにこそ、幾星霜を隔てた過去・現在・未来を貫く永続的な価値がある、と芭蕉は考えたと指摘しています。当然ながら、瑞巌寺のように先人が苦心して築き上げた建造物、「奥の細道」のように伝承していく貴重な書画文物にも、同じ価値が認められましょう。
 一方、李登輝氏は、前述のように「奥の細道」に代表される日本の豊かな自然の美しさの中に、日本独特の文化と精神性が宿っていると述べています。しかし、この2人の考えは、相対立するものでもなければ、矛盾するものでもありません。何故ならば、自然も人工物も、長い時間の経過の中で渾然一体となって調和しているのが、日本そのものの姿であるからです。

国宝瑞巌寺に李登輝氏の句碑を建立する理由

 現在の国宝瑞巌寺は、慶長14年(1609年)仙台藩祖伊達政宗公が全面改修の造営を命じたことによって、今日の姿に至っていますが、開創は平安時代の初期天長5年(828年)慈覚大師によると伝えられる奥州の名刹です。芭蕉が訪れたのは元禄2年(1689年)ですから、政宗公造営後丁度80年目に当たります。「曾良旅日記」によれば、芭蕉・曾良主従は「瑞巌寺に詣で、残らず見物」し、開山法身和尚、中興雲居和尚や無相禅岩窟にも言及しています。芭蕉にとって瑞巌寺は松島の景色と同様、心に深く印象づけられた訪問先であったに相違ありません。
 そして李登輝氏は、初夏のみずみずしい青葉のもと、瑞巌寺本堂や庫裡をつぶさに参観したあと、松島の印象を直截に詠み込んだ秀句を発表しました。
 私達は、李氏の松島での句作を何とか形に残すことはできないだろうか、と考えました。そして、さいわいにもその思いは結実しました。
 李氏の「奥の細道」探訪の事跡を末ながく記念し、百代の過客にわたる日台友好親善の隆昌発展を祈念しての句碑建立事業が、日本李登輝友の会宮城県支部、宮城県日台親善協会が中心となって動き出して1年、めでたく完成を見る運びになったことはまことにご同慶に堪えません。
 今回の句碑建立は、李氏の「奥の細道」への熱い想いに呼応する多くの協賛者の方々のご好意と、何よりも境内地に建立を認めていただいた瑞巌寺吉田道彦老師の温かいご理解に基づいております。改めて、発起人として深甚な感謝と敬意を表させていただきます。
 たまたま国宝瑞巌寺は、文化庁の強力な後押しによって、これからほぼ10年をかけ平成の大修理に入ります。古人の残した貴重な文化財を、創建時の良好な状態を保ったまま、天変地異の過酷な試練を乗り越え、後世に伝えていく現代日本人の意志が結集した大事業であります。
 松尾芭蕉と李登輝氏の詩魂と霊性が句碑を通じて交流するとすれば、その建立地は、「奥の細道」松島の段を記す石碑に列する瑞巌寺境内西端の場所が最もふさわしい、と考えました。なお、句碑建立は、特別名勝地区松島のため文化庁の正式な許可を得て、9月中に完了となります。
 李登輝氏の句碑が、平成の大修理によって末ながくその荘厳なたたずまいを残す大伽藍の一隅にあって、松島の風景に溶け込む新たな千歳の形見として、後世に伝えられることを心から期待していきたいと思います。

(注)この文章は、平成20年6月に国宝瑞巌寺境内に句碑を建立する際、松島町一帯が特別名勝に指定されていることから、新たな建造物の許可を文化庁からいただくために作成した申告書を、加筆修正したものです。
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